自由

 やぁ、みなさん、教祖伝は頭に入ってますか? その教祖伝のなかでさ、教祖が山村御殿に出向かれるときの話おぼえてる?
途中、教祖が、ふとつまずかれて下唇を怪我なさったんだよね。そして一言「下からせり上がる」とおっしゃったんだよね。
 実はこの前さ、僕、出張で東京へいったんだよ。それで暇があったからさ国会議事堂を見物に行ったんだ。そのとき、ふと僕も何かにつまずいちゃってさ、瞬間、そのお話を思い出したという訳さ。
 でもあの時、一体、何につまずいたんだろう? 政治家が捨てた公約だったりして・・・
ハーイ、今回は、「自由」についてお話したいと思います。
ところで、まさかと思うんだけど、「自由」を「じゆう」なんて読んだ人いないよね。
えっ! 読んじゃった?
それは、ちょっと教理不足だな~。
無い人間、無い世界をお創め下さった親神様のご守護には、何ができない、何がかなわないってことは無いよね。
時間・空間を越えた不思議な働き、珍しいご守護をお見せ下さるのが親神様で、このような親神様のご守護をおふでさきやおさしづの中では「神のぢうよ」「神のじうよ」あるいは、「ぢうよふ」「じうよふ」などという言葉で表しておられるんだ。
ちなみに、この「ぢうよ」という言葉に漢字を当てる場合、古くは「自由用」という文字が当てられていたんだけど、昭和二十四年に裁定された天理教教典では、「自由」の漢字を当てて「じゅうよう」と振りがながつけられているんだよ。
この「じゅうよう」という言葉は、親神様のご守護のことでもあるんだけど、日々、身体が何不足なく、健康に思うままに使わせて頂けることを「身上自由かなえさせて頂く」と言うんだよね。
また、自分の健康はいうまでもなく、家族も達者で、家庭も円満におさまり、仕事も順調であり、周囲の人々との関係もよく、何事も思うように運んでいく。そんな意味をこめて、
「自由という理は何処にあるとは思うなよただめんめん精神一つの理にある」
(おかきさげ)
とお仕込み下さっているんだ。
 そして、僕達は、「心一つが我がの理」と聞かせて頂くように、心だけは、制約なく使うことできるよね。このことを「心の自由をお許しい頂いてる」って言うんだ。
 最後に、ある先生のお話にあったんだけど「おかきさげ」って飾っとくもんじゃないんだよね。ときたま取出しって心に治めなおすことが大事ってこと。それじゃあ、みんな。スラマット ティンガル! (インドネシア語)