いんねんの自覚
は~い、マーちゃんですよ。
みなさん、今年もよろしくお願いしますね。っということで、今回は、「いんねんの自覚」というテーマで話を進めて行きたいと思うんだけど。
唐突だけどさあ、みんなは、ある望みや願いをもって頑張ってはいるんだけど、なかなかうまくいかず、それをある人に、何でもないようにやってのけてしまわれることってない?
また、これだけは避けたいと一生懸命つとめても、どうしてもそうなってしまったってことないかな?
実は、このようなのは、いんねんによるものだと教えられているんだ。
でも、もしこんなこと聞いたら「成ってくるのも成らないのもいんねんなんだったら、努力しても仕方ないじゃんか!」なんて思う人もいるかもしれないね。
成るもいんねん成らんもいんねんなら是非はないと言えばどうもならん(明36・12・22)
というおさしづがあるんだけど。教祖は、どうすることもできない因縁因果の姿をしかたないけど受けなさいってことを言いたくていんねんを説かれたわけじゃないんだよ。
なってくる姿は素直に受け止めて、その中に自分のいんねんを深く悟り、我が心にまといつく悪いんねんを一つ一つ取り除いてく道をお教え下さったんだ。
だから、まずしなくてはいけないことは「いんねんの自覚」ってことなんだ。
まず自分が通ってきた今日までの姿を自分自身はっきりと自覚すること。
そして、自分の本当の姿を知ると、そこから、おわび(さんげ)と報恩の行動が生まれるんだ。
そう、これこそが苦の世界から抜け出すことのできる確実な道なんだ。本来ならそのいんねんに引かされ、さらに苦しい迷路に迷いこむはずだったのに、いんねんの自覚により、向かうはずだった方向の恐ろしさに気づき、踏み止まることができたのだという喜びと感謝に包まれるというわけ。
今日まで、自分が積んできたほこり、自分のいんねんの深さに気づけば気づくほど、成ってきた姿というものは、いんねんの結果そのものではなく、大難は小難、小難は無難にと親心を持ってお連れ通り頂いてきたのだということが悟られ、心の底から有難さが湧き上がってくるんだよ。
つまり「いんねんの自覚」って与えられた現実を喜びと感謝の心で通るための渡し船と言っても過言じゃないよね。うまくまとまったとこで今回は御開き。
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