教祖御誕生祭

 先日の教祖御誕生祭団体参拝の際、見事なまでにトシキが迷子になりました。居るはずの我が子が居ないと分かり、ぐるりと辺りを見渡した時、あまりの人の多さと境内地の広さに「この中から捜すのか・・・捜せるのか・・・」と血の気の引く思いでした。
 捜しながら親神様、教祖はもちろん、十数年前に他界した実父や楯縫の前会長様ご夫婦、はたまた医大にて入院中である会長さんにまでも心の中で「何とか見つけて下さい、見つからせて下さい。」とお願いしました。自分の心使いを省みたり、今度からはこうさせて頂こうと考えたりしてとても時間が長く感じ、親神様も私達人間に対しては我が子を思うのと同じ思いなのだなと思い神様も「こんな時ばかり反省して都合がいい」と思ってはないだろうかと思ったり(笑)
 トシキがはっきり自分の名前だけでも言えればともかく、質問に答える事が難しい状態ですのでとても心配でしたが、おぢばだから大丈夫と言い聞かせました。
 たくさんの方々の手を借りて無事に(どこかに落ちたようでびしょ濡れでしたが)発見する事ができ、自分一人で生きているのではない、皆様のお陰があり、また神様に生かされているのだと改めて感じました。長時間一緒に捜して下さった方々、ご心配して頂いた皆様、本当にありがとうございました。
 その後の生活ではロタウイルス感染で入院し、妹の涼枝は何日も発熱が続いたりと慌しかったのですが、どちらも全快の御守護を頂き元気に日々過ごさせて頂いて居ります。
 先日保育所用のタオルに名前を記入した時、「これ何て書いてある?」と私、「なりあいとしきでしょ」とトシキ。うそ?!と思って聞き返すともう答えてくれず無関係の言葉を連発。別の日「今日保育所で何した?」と私、「ブロックしたよ」とトシキ。お!と思い「確かお外の水溜りで遊んだのよね?」と私、「そうだよ」と返事があり、すごい!長い会話成立!続けて「楽しかった?」と聞くと「そうだよ」・・・ん?・・「何が楽しかった?」「そうだよ」・・・。その後は何を聞いても「そうだよ」。どこまでが噛み合っていたのだろうか・・・。しかしこうやって当たり前の少しの出来事にすごく感動する事ができて、この身情もありがたいと思います。ただ最近「こだわり」が以前よりひどくなってきているようで些細な事で反り返って長時間泣く事があり「また勉強だな・・・(涙)」と感じております。
 自分の思考回路の範囲をぐぐぐっと広げてもらっている、いろいろな視点や感じ方考え方をこの子を通じて神様に教えて頂いているような気がします。  ・・・つづく。
 「心に掛かれば身に掛かる。・・・何か心に掛からんよう。身の処には不足無き、日々心に掛かれば日々遅れる。遅れはどうもならん。楽しみという理、心に掛かれば楽しみの理が薄くなる。」心に掛かるのはこだわるからで、こだわるのは人間考えの「我」があるからだ。身を捨ててこそ立つ瀬があるのだ。  
 おさしづ一日一言より