いんねん

 はい、みなさん、今日は「いんねん」について勉強しましょう。よく、このお道では、いんねんって言葉を使うよね。一般な意味としては、「今、出来てきていることに対する以前の関係」(果報の対)というような意味として使われているよね。
 ナスの種をまけば、ナスの実が成り、柿の種をまけば、柿の実が成るのが自然の道理で、諺に「蒔かぬ種は生えぬ」ってあるけど、教祖は、「まいたる種は、みな生える」とお教えくださり、私たちの日々の心遣いを農作物に例えてお諭し下さっているんだ。
 僕たちは、「我がの理」として、心を自由につかうことを許されていて、親神様は、僕たちの日々の心遣いをそのまま受け取って、心どおりの守護を下さるんだ。
 よい種をまけば、よい実がのり、悪い種をまけば、悪い実がのる。
 そう、これが、天の理なんだ。思いがけぬ病気に苦しむのも、予期せぬ事情に泣くのも、みなそれまでに、我が心からまいた種が芽生えているんだよね。
 この「いんねん」も、すぐに姿となって現れてくるものもあれば、そうでないものもあるんだ。今生に積み重ねてきた「いんねん」として思い当たるものもあれば、生まれ変わり出変わりして、前生々々から持ち越してきた「いんねん」もあり、今生の記憶しかない僕たちには、思い当たりにくいものもあるんだよね。
 まいた種は必ず生えて来るんだよね。
 でも待ってよ、「いんねん」って人間にとってどうしようもならない宿命というわけではないんだよ。
 教祖がお教え下さったのは、現実の姿を単に嘆き悲しんだり、自暴自棄に陥るのではなく、むしろ、あてられた姿の中から自分の「いんねん」を悟って、親神様にもたれ、心を入れ替えることにより、その「いんねん」を断ち切ることが出来るとお教え下さったんだ。
 最後にみんな。「いんねん」の自覚をしてますか?
 自分の生きてきた今日までの姿を振り返り、与えられた姿の中に、己の「いんねん」が悟られたとき、そこにおかけ下さる親神様の親心が感じられて、暗闇と思われた現実の世界が、光明にあふれる喜びの世に変わって来る。・・・そう、それが、本当の意味での「いんねん」の自覚ということなんだ。
 それでは、今回は、ここまで、バ~イ!