談じ合い

 天は二物を与えずってことわざがあるけど本当かな。実際、世間を見渡してみても多才な人、多くの長所を持っている人っているよね。女性に関して言えば才色兼備なんて言葉もあるよね。えっ?なぜ文頭からこんな話かって。実はさあ、この間のうちの両親の会話が少々コミカルだったもんでさあ。
 まだ言ってなかったかもしれないけど、うちの両親って町内でもうわさになるくらいのおしどり夫婦なんだ。それが、この前の晩にさぁ、家族で夕食を囲んでた時のことなんだけど、お母さんったら急にお父さんに向かってこんな事を聞くんだ。
「あなたは、頭のいい女性と顔のいい女性、どっちが好き?」
 お父さんは、一瞬、動じた様だけど、的確に返答したよ。
「どっちも好きじゃないなあ」
「あらっ、どうして?」
「それは、ぼくが好きなのはお母さんだからだよ」だってさ。コミカルではあるけど照れちゃうよね。
 さーて、本題に入ろうか。いきなりだけど一曲歌うね。「戦争知らずに~♪ 僕らは生まれた~♪」そうなんだよね。僕は、言わずと知れた戦後生まれの日本育ち。そして、戦後の日本というのは民主主義国家だよね。僕らは民主主義の自由権という属性により言論も思想も自由とされているんだよ。
読者の中には戦前、もしくは戦時中に生まれ、戦争の辛い苦しみを身にもって味わった人もいるかもしれない。世界に目を向けて見ると、この前のイラク戦争や、その他の国でも民族や宗教が関わった紛争など、争いって絶えないよね。全人類が教祖の教えを行っていればこんな事にはならないのにね。つくづくそう思よ・・・。おっといけない。話がエスカレートし過ぎたようだ。話題を元に戻すよ。 
現在、僕らは、民主主義の制度の中で、会議や選挙などの仕組になれ、民主的な意見の尊重っていうのは知らない内に身に付いているよね。ぶっちゃけて言えば、僕たちって、みんなで物事を決めるのは、多数決が当り前って思っちゃっているよね。その為、時には正しい少数意見も多数決の横暴によりかき消されるなんて事も起こりかねないけど。
お道において、二人三人で話し合うことにも、また、大勢の人が集まって行う会議などにも、よく『談じ合い』という言葉を使うんだけど聞いたことある?

談じ合うてすれば、どんな事でも出来て来る。
           (明治27・6・29)
教祖は、どのような事態であってもみんなで談じ合いをして進めていけば、どんな困難に思えるような事でも達成でき、きっと明るい未来が開けて来るとお諭し下さっているんだ。
だけど、親神様が望まれる『談じ合い』って民主主義の多数決原理みたいな形のものなんだろうか? 分かる人いる? えっ! 民主主義じゃなくて非マルクス主義!? 何それ? それは違うでしょう。         
僕らは、『談じ合い』なんて聞くとついつい民主的な会議のようなものを考えがちだけどそういうものとは全く違うものなんだ。それって習慣が引き起こす甘い罠なんだよ。慣れって怖いよね。だからと言って少数派を大事にするって事でもないよ。
実を言うと、お道の『談じ合い』とは、ああだ、こうだと取り決めすることではなく、みんなの心を一つにすることを意味するんだ。
立場の上からああしなければ、こうしなければと銘々の意見が対立すると、すぐに仕切りや垣を作り、派ができてしまうよね。
親神様は、そんな自分の意見ばかり主張するようなバラバラの心は望んでおられないんだ。そう、望んでおられるのは、一手一つだよね。
『談じ合い』とは、みんなが、親神様の思召に立ち返り、教祖の思召を台として心を一つに揃えることなんだ。
この世は、親神様によって造られ、教祖によって導かれたものなんだから、話し合い一つにも親神様、教祖の思いに添って進めるのは当り前だよね。分かったかな。ん? あれっ、ヤバイよ。地元の消防団の会合の時間だ! さっそく、談じ合わなくては。それじゃあ、今回はここまで。グッバイ・デモクラシ~♪