認められる

 最近若い女優さんが「出家します。」と契約途中で発表し、ちょっとした騒動になっています。他所の宗教なので内情は分かりませんし、様々な事が報道されていますが詳しいことはわかりませんが、そこはさておき。彼女は幼いころから信仰家庭に育ち、折に触れ行事には積極的に参加してきた、心が行き詰った今「神のために生きたい」と決心されたそうです。いろいろ言われてはいますが、若い今時の娘さんにここまで信頼されている宗教はすごいなぁと一番に感じました。
自分はどうか。そして人にちゃんと伝えられているか・・・この体の辛さ、心の苦しさ、「あの人は元気だから分からない。」「あの人は環境に恵まれているから。」「あの人に話しても{分かってもらえない}。」思われていないかなぁ。実際自分もそう感じたことが多々あります。しかし教えと照らし合わせて、あぁそうかと思い直したりしますが、その時は何とも残念な寂しい気持ちになります。先日も子供の学校で人権同和のお話を聞かせてもらいました。
 がんばってで心を閉ざし
 がんばったねで心を開く
という言葉がありました。同情されることは、それまでの過程を認められる事なのだ。一旦そこに区切りがつくと進みやすいのだなぁと感じました。いつも言われることですが、たくさん褒めると子供は伸びると聞きます。しかし変な褒め方を続けると、いわゆる「こうまん」の心が育ちやすくもなるそうです。今回はまた一歩踏み込んで、「子供を褒めるには大人も褒め合わないといけない、感謝の心を夫婦間などでも伝え合わなくてはいけない」
と話されました。お道のお話のようでハッとしました。
 人間誰でも認められると、気持ちが良い、大人も子供も、まだ言葉の出ない赤ちゃんでも理解できると聞きます。自分自身を通して親神様、教祖を心の拠り所になってもらえるような育て方を心がけて通ることがやはり大切だなと改めて思いました。
 とりあえず、おたすけの出来る子供になってくれることを心がけて共々に成人してゆきたいと思う今日この頃です。