神一条

 やあ~僕ってつくづく無知だよね。笑わないで聞いてくれる。「情けは人の為ならず」って言うけど、僕はてっきり『人に情けをかけることは人の為にならない』って意味かと思ってたんだ。全く逆で『人に親切にしておけば、めぐりめぐって自分に良い報いがある。親切は人の為じゃなしに自分の為にするんだ』って意味なんだってね。知らなかったよ。『人に親切にするな!』なんて格言があるわけないもんね。
 そうそう、親切と言えばこんな話が。このまえうちの両親、バレエって踊りを観に行ったんだって。でも、興味の無いお父さんは、踊りが始まる前に眠り出したんだって。ヒドイよね。そしたらさあ、舞台に出てきた踊り子さんたち、お父さんを起こさないように気遣って、みんな、つま先で踊ってくれたんだって。世の中には親切な人がいるもんだ。
 さあ、今回は「神一条」についてお話してみようか。みんなは「神一条に生きる」なんて聞くと教会長や教会の家族、単独布教している人なんかを思い浮かべるのかなぁ。
「一条」とは、一筋の心で歩むこと、ただそれだけに心を向けることなんだよね。だから、『世間の常識や習慣に寄りかかり、尚、その上に神仏にも護ってもらおう』というような生き方や、『信仰は信仰、日常生活は日常生活』と、使い分けるような生き方は、「神一条」とは正反対のものと言えるよね。
 つまり、世間体や常識にとらわれず、ご教理によって物事を判断し、親神様の思召だけに添いきろうとする心、これが「神一条」の精神なんだ。
 だから、「神一条に生きる」ってことは、教会長などの職業的なことだけに当てはまるものではなく、どんな暮らしをしている人でも、心の持ち方によって「神一条」の生き方があるんだよ。う~ん、例えば、神一条のお百姓さん、神一条の商人、神一条のサラリーマンとしての生き方があるし、神一条のF1ドライバーや神一条の冒険家なんて生き方だってあるよね。
 もちろん、親神様の思召を深く悟って我が身我が家を忘れて人だすけにつとめる布教師は、それこそ「神一条」に断ち切った姿と言えるよね。
 しかし、形の上では、教会に住んでる人でも、物事の判断が我が身中心であれば、それは、ただ教会に住んでいる人というだけで「神一条」ではないし、一日中、教会の仕事をしている人であっても、思召に添わない心をつかい、世間的な何かの力に頼ろうという心が混ざっていれば、これまた「神一条」とは言えないよね。
 ところで、みんなは「里の仙人」って言葉を聞いたことあるかい? 教祖は「山の仙人」ではなく「里の仙人」として生きるようお教え下さったんだけど、どういう事か分かるかな? え?何々・・・そうそう、山より里のほうが野菜も採れて仙人も暮しやすいって違うよ! そうじゃないよ。この道は、深山に分け入って、過酷な修行を積み重ねて悟りを開いたり、超人的な力を身につける仙人のような道ではなくて、日常の暮らしの中でこそ、人間としての本当の生き方、お互いがたすけあってこそ味わえる真の喜びに満ちた生き方があると教えて下さったんだよ。
 だから、僕たちは、たとえ深くたくさんの教えを知らなくても聞かせて頂いた教えを素直に自分達の暮らしの中で実践・実行していくことが大切で、そういう生き方を「神一条」とお教え頂いているんだよね。
 ところで僕、神一条の宇宙飛行士をめざしているんだけどなれるかな。月で布教活動をしたいんだ。だってさあ、月の引力は、地球の1/6なんだぜ。宙を舞いながらにをいがけ出来そうじゃない。