神様にもたれるって?

 先月に引き続きお付き合いください。よろしくお願いします。
早速報告させてもらいます。お蔭様で鼓膜が塞がってました。十一日に聴力検査をしたらほぼ平均値が出ました。この日診察を待っていると赤ちゃんの泣き声がうるさい!ちょっと離れたところに婦人科があるからですが、待っている間泣き止むことがなかった。『今日はどうしたことか?泣き声なんて聞こえたことないのに…』あっ!今までこの声が聞こえてなかったんだと気づき嬉しい気持ちになりました。いろいろ心配くださった方、本当にありがとうございました。ただ、昔失敗したこともあって、こういうところでも公言して、仕事も休んで、嬉しい気持ちよりも前に、安堵したというのが正直なところです。
 そして僕がここで伝えたいのは、入院中や退院後の心の葛藤です。それはただ治ってるか心配とか、不安とかではなくて、一言で言えば、神様にもたれるってどういうことなんだ?ということです。信仰している一つの矛盾として、身上も自分のせい、治らなくても自分のせい、どうしたらいいの?って事。神様にもたれきっていなかった。心通りの守護とか言われたりする。専修科時代に先天性の骨が伸びる病気で、今まで何度も手術をしてきた同級生がいて、話し合いかなんかしてるときに、「こんな体で生まれてきて、治らないのもしんどいのも全部自分のせい、正直僕はつらい。」と訴えてることがありましたが、信仰が自分を追い詰めることがあるんです。僕もその気持ちが少し分かりました。治ってるのが分かればいいんだけど、分からない。
 ここで神様にもたれきって、治るに決まっていると信じ切れたら良いんだろうけど、そうは考えられない。というかそんな人いるんですか?入院中先生は、朝僕の顔色を見るだけ、診察なんてないし、耳ダレが流れたような気がして不安になるし、夜中それで目が覚めることもしょっちゅう、そもそも不安だとかマイナスに考えるのは本能だそうですよ。人間がもっと原始的な生き方をしていた時代、不安になる気持ちがなけりゃ生きられない!不安があるから備えるわけで、そうして生き繋いできた。スポーツ選手や成功者ですごいポジティブな人がいるけれど、あれは特異な人だと思う。不安が当たり前。不安を解消させるはずの信仰が自分を責める!治らなかったら自分の心遣いが悪いのか?神様にもたれきってなかったからか?時間が有るといらん事ばっか考えちゃいます。結局、恩師の身上助かりよりも心助かり、という言葉を思い出して、治らなくても良いじゃないか、治ってないなら治ってないで、その中に喜びを見出してみせる。それが神様にもたれるということの、僕なりの答えになりました。それで気持ちが楽になりました。
 お蔭様で、今は素直に聞こえることが喜べます。この気持ちを忘れずに、またこれから思い通りにいかないことがいっぱいあると思うけど、どんな中でも喜びを見出せるような信仰者を目指したいものです。